白黒つけられないことについて

すいません。
今日はかなりどうでもいいような良くないようなことを書きます。
初めに謝っちゃいます。

私はそもそも純文学が好きでした。

純文学って何?って思われますよね。
「人間の死生観を扱った文学」とでもなりましょうか?
もっと簡単に言うと「人間が生きて死ぬことって何だろう?と言うことを扱った文学」と言う感じだと思います。

18歳とか19歳の時の自分はとにかく思い悩み、純文学の類を読んでいました。
そこに救いを求めていたのです。恥ずかしながら。

音楽とかもそうです。あと映画も。個人的には動物園なんかもです。

もちろんそこには分かり易い答えはありませんでした。
モヤモヤしたまま終わりです。

でもそれでいいのだと今は思います。

モヤモヤを抱えながら生きる宿命にあるのが人間なのです。
相田みつをっぽいですが・・・

ただ、モヤモヤしっぱなしで社会人になる訳にもいきません。
というかモヤモヤな社会人になるのは辛すぎます。
現実的な生活を送るためにはモヤモヤとの折り合いをつけるしかないのです。
これが出来ないと本当に社会生活が営めないかもしれません。

このモヤモヤとは何でしょう?

言語化するのが極めて難しいですが、敢えてしてみます。
「夜空の星々に思いを馳せながら、太古の記憶を辿りながら、ため息をつきながら思考をめぐらすこと」とか「猫ちゃんが考えていることが分かったら素敵だよな~なんてことを真剣に考えること」とか…

早い話が「生産性」が低そうなことです。
そうです。「生産性」が極めて低いことを考えることを私はモヤモヤと言っているのです。

「生産性」とか「コスパ」ばかりを気にすることが、あまり性に合ってないのかもしれません。
もちろんそれらを重視したい人を否定している訳ではないです。
あくまでも好みの問題です。

例えば、ビュッフェとかでここぞとばかりに食べまくっている人よりも控えめに食べている人の方がちょっと気が合うかもしれないなぁっていう感じです。

完全に話が逸れました。

とにかく生産性があまり高くないんだけど、人間にとって大切なものってやっぱりあるんじゃないのかなぁっていう話でした。

あ、因みにうちの塾はかなり生産性が高いと思ってますが(笑)

今日も笑顔で子供たちと向き合います!